2014年4月24日木曜日

なぜ、教師は息子の入学式に出席するために担任を務める1年生の入学式を欠席してはいけないのか。

先日あるニュースがネット上を駆け巡りました。

担任、息子の入学式へ…高校教諭勤務先を欠席、教育長が異例の注意


要は、50代の女性教諭が長男が通う別の高校の入学式に出席するため担任を務める1年生の入学式を欠席していたことに対して、保護者や教育委員会が問題視して注意をしたというものです。
どうやら、教員の責任感、倫理観、モラル、聖職者としての振る舞いみたいなものに相応しくないというのがその理由のようです。

 

私の意見は、上記内容とは全く異なります。

 

結論から言えば、この女性教諭は(仮に男性教諭だったとしても)何も間違ったことをしておらず、二つの意味で責められる筋合いはないと考えています。

1. 責められるとすれば女性教諭本人ではなく、学校という組織とその長である校長。

 

この女性教諭は高校の入学式を休むことを事前に上長等に相談をして承認を得ています。学校側としては今年は担任を外すなどの対応を検討したと思いますが、結果的にこの女性教諭に今年の新入生の担任を任せたわけです。さらに、新入生の入学式でも校長が欠席理由を紹介し、お詫びの文章を事前に作成して生徒に配りました。

女性教諭は被雇用者として所定の手続きに従って有休を申請し、それが認められたので有休を取得しただけです。仕事への影響をなるべく少なくするために必要な措置も事前に取っていました。

2. 個人の選択の自由が認められない、あるいは大きく制限されている社会よりも選択肢が最大限認められている社会のほうがみんな幸せ。

では、その女性教諭の上司が承認しなければ良かったのでしょうか。もしそうだとすれば世の中の多くの上司はとりあえず考えるのも面倒だし、責任はなるべく回避したいので基本は承認しないという方向性になってしまいます。

家族という最も大切な人の大切な日に、何を優先するかという選択権は本人にあるべきです。他の人には分からない「個人的な事情」もあるでしょう。もちろん、例えば国防などの場合においては個人の都合よりも仕事を優先すべきだと思いますが、そういう場合でもなるべく範囲を限定した上で、法律等で内容を明確にし、就職する前に本人の了解を取った上で行われるべきだと思います。

仕事よりも家庭を優先して休みたい人は休めばいいし、やはり従来型の聖職者としてのプライドや教員の責任感を優先して休みたくない人は休まなければ良くて、どっちが正しいというものではありません。さらに言えば、こういうものは本人からは言い出しづらいことが多いと思いますので、周りから率先して聞いてあげる、休みやすい雰囲気を作ってあげる、そもそも気にしない文化である方がみんな幸せになれるのではないでしょうか。

世の中でブラック企業がどうのとか、日本人の有給消化率が世界で一番低いからブラック国家だとか、色々言われていますが、この女性教諭の問題と何が違うのでしょうか。みんなの意識を変えて、むしろ休みたいけれども言い出しづらそうにしている同僚や部下に対して、周りから休んだら?と提案できるような社会であればこういう問題も自動的に減っていくのではないでしょうか。

この話に関係して、私の子供の時の話を思い出しました。

 

私は中学受験をして、東京都国立市にある桐朋という東京都23区外では割と有名な進学校に進学しました。私の母親は私を桐朋に入れるために小学校4年生の時から毎日の様に遠くの塾まで送り迎えをし、塾で食べる晩ご飯用のお弁当を作ってくれて、受験に役立ちそうなイベントがあるとどんな苦労も厭わずに参加して情報収集をしてくれていました。入学試験の申込をするときも、早く申しこめば筆記試験と面接が1日で終わるというので、申込開始日の始発の電車で出かけていました。何年間にも渡り、その苦労は本当に大変だったと思います。

そんな「個人的な事情」がありましたから、彼女は桐朋中学の入学式に参加することを本当に楽しみにしていました。私の母は教職ではありませんでしたので、入学式は何も考えずに参加する事ができましたが、仮に母親が教職だっとしても何よりも優先して入学式に参加したと思います。私はそんな母親には入学式に参加してもらいたかったですし、彼女も参加できてとても幸せだったはずです。

今回の件に限らず、どの家庭にもなぜそうしたいのか「個人的な事情」があると思います。そういう「個人的な事情」をどう取り扱うのかについて、その個人に選択権があり周りもその「個人的な事情」に寛容な世界のほうが、みんな幸せになれるのではないかと思うのです。


0 件のコメント:

コメントを投稿